“思い込み”を取り払い、相手を立体的に見れば、愛おしくなる 〜旅立ちの前に記すCiftでの時間〜


2017年9月から1年弱参加してきたCiftを、この7月で旅立つことになった。
離れる前に、あらためて、どうして自分がCiftに加わり、11ヶ月の間でどんなことを感じ、なぜ今回旅立つことを決めたのか、簡単にまとめていきたいと思う。

1話「血が繋がらない家族」のおかげで生き延びてきた 〜旅立ちの前に記すCiftでの時間〜

いつの頃からだろう。はじめて出会った人とFacebookで友達になると、2桁は共通の友人がいるのが普通になった。近いコミュニティにいる人とばかり出会い、自分のことを知っている人とばかり過ごす時間が増えていっていた。

Ciftという「ソーシャル」なコミュニティを知った時も、おそらく自分と近いコミュニティの人が集まっているのだろうと、どこかで高を括っていた。でも、蓋を開けてみたら、共通の友人が一桁台の人もいたし、今考えても、Ciftがなければ出会わなかった人や、どこかで出会っていたとしても、仲良くはなっていなかっただろうと思う人も少なくない。

大人になれば、自分で交友関係をある程度選択できるし、第一印象で自分と「合う/合わない」はだいたい分かる。そう思っていた。

でも、ともに暮らし、元気な時もそうでない時も時間を共有し、なにより、その人のライフヒストリーに触れていくと、自分が勝手につくっていた相手の”イメージ”はボロボロと崩れていった

2018年年明けに開催されたCift合宿でのランチタイム。Ciftで「はじめまして」の出会いをした人たちばかりだ。

愛にあふれると思っていた人が、実は愛情をとても求めていたこと。
幸せな家庭で育ったのだろうと思っていた人が、私には想像のおよばない葛藤を抱いていたこと。
その人の持ち前のキャラクターだと思っていた行動が、その人のトラウマをケアするステップだったこと。
ただの”ヘンタイ”だと思っていた人が、その人自身の揺らぎない信念をもって生きていたこと。
表面的な強さだけだと思っていた人が、根っからの正義感溢れる人だったこと。
脆くて繊細に思えていた人が、本当はとても強いものを湛えていたこと。
人に頼るようなことがなさそうなくらい強く見えていた人が、時に一人では抱えきれないような不安を抱いていたこと。
自己肯定感をしっかりと保っているように見えた人が、自分を嫌った過去をもっていたこと…。

すべての人が多様な面をもっていて、光を当てる角度を少しずつ変えてみることではじめて、その人が立体的に浮かび上がってくる。そのことを肌で感じることの連続だったように思う。

そして、立体的に捉えられるようになればなるほど、相手のことを愛おしく思う感情も高まった。強さを知れば甘えてみたくなり、弱さを知れば守りたくなった。

自分の「思い込み」が取り払われたのは、ヒトだけじゃない。

Ciftでは、月に数回の「家族対話」と月に1回の「家族会議」で、コミュニティをもっと盛り上げたり広げたりするための様々な新しい取り組みについて話し合い、実践している。時にそのなかで、「家族」に対する価値観や「家族になる」プロセスの考え方が、あまりにも自分と違うと感じ、Ciftを出ていきたいと思うほど、苦しくなることがあった。

Ciftである”事件”が起きた時に開かれた緊急家族会議。このときも自分の「ふつう」を崩されて、とても動揺した

そんなある時、メンバーの一人、Aさんに相談をしたことがある。「私にはBみたいな考え方は理解ができない。家族って〜〜だと私は思うから…」。するとAさんは…

「もしかしたらBのなかに、アーヤは自分と同じ何かを感じるからこそ、腹が立つんじゃないかなぁ。BにはBの、”正しい”と思う守りたいものがあって、アーヤにはアーヤの譲れない”正しさ”がある。だからぶつかっているんじゃない?

それまでの私には、Bが自分の意見をCiftに押し付けているように見えていたけど、自分も同じように、自分の正解を押し付けようとしていたんだ、とハッとした。

同じ物事に対してでも、人によって「正しい」と思う考え方は違うし、「ふつう」「よくあること」と感じる出来事も違う。自分にとって心地よい関係性のなかにだけいると、そのことをすぐに忘れてしまう。特に、社会問題など争点がわかりやすいものではなく、もっと感覚的な「家族」「愛情」「幸せ」といった概念に対する考え方のほうが、違いを受け止めるのにハードルがあるようにも感じた。

普通の交友関係であれば、すぐに距離をおいたり、諦めたり、手放していたかもしれない局面でも、「家族になる」という決意(ある種の「縛り」)があったからこそ、簡単には逃げ出さずにすんだし、逃げなかったからこそ、気づけたものはたくさんあったように思う。

そんな経験をして、あらためて思う。自分の「血縁の家族」と、私はそこまで「違い」を意識して、辛抱強く向き合えていただろうか?と…。「家族」は、当たり前に存在しているものではなく、きっと、みんなで形作っていくもの、そして更新し続けていくものなのだろう。