10歳娘と浜松リトリート旅へ


2023年、年始は10歳の娘と浜松へcift familyとのリトリート旅からスタートした。
※私と子どもたちは住居を共にしない形でciftへのjoinを始めている。主には場所的、年齢的なことだけに縛られない子どもたちの居場所を作りたい思いからだった。実際にはイベントベースでの参加が中心なので、それなりに子どもたちも通常より場に慣れていくのに時間はかかっている。今はその発酵時間を楽しみながら過ごしている状態である。

今回、founder健介さん、地元浜松で食のプロジェクトを進めるヒロさんからリトリート旅のお誘いがあり、できれば対話も含めて10歳の娘と一緒に参加したいと申し入れた。

私の中での参加の動機は、
・娘に様々な価値観の人と過ごす時間を作りたい。
・子離れの始まり。
・親子共に自分と向き合う時間。
・やや反抗期に入った娘の建前でなく本音を知りたい(後に頭ではなく心で感じることとリンクする)
・美味しいもの食べて、母娘旅を楽しみたい etc..

企画者であるお二人からは、対話も含めて母娘で参加したいというこちらの意図も聞いて下さった上で、快く承諾いただいた。恐らくお二方にとってもチャレンジングだったとは思うけれども、受け入れてくれたことには本当に感謝をしている。

実際のリトリートでは、ざっくりとこんな時間を過ごした。
地の神様へご挨拶
地元のお風呂や建物
地の食材で料理
対話
地元のお散歩…


まずは地の神様(秋葉山神社の火之迦具土大神)へご挨拶

 


本宮まで383段は娘の実測値☺️

実際には、娘の「対話」への参加は条件によって(22時過ぎや高温サウナ内での場合など)スキップしたり、また他のことをしたい時は正直に伝える様に話し、それを見守った。

全員で対話している中で「ドラえもん見てきていいですか」と聞くのは、実はなかなかに勇気があることだなぁと見ていて思ったが、思えばそれこそが頭ではなく心で感じたことで行動していると、後になって気づいた。


ヒロさんプロデュースの地の食材は命のエネルギーに溢れていました。内臓が喜んでいるのを感じる!


宿泊したATAGOYAさんは、浜松天竜は清流阿多古川のほとりにある古民家宿。建物も貸切サウナも最高でした。こちらもヒロさんセレクト。

以下、私自身の気づきと娘への気づきについて。

ちなみに実際の対話の場では、参加メンバーそれぞれに気づきや出来事があり、いくつかは自分ごととして捉えたこともあった。まさにリトリートの一つの目的であった「私」が「私たち」になっていく瞬間。

多くの人が参加している中で、娘は、思ったよりもまだまだ母である「私」を直接求めていた。私自身は最近娘との時間はある程度足りていると思っていたけど(以前はもっと少なかった)、私と時間やできごとを共有していくことを欲していた様に感じた。そこに気づいてからは、できるだけ多くの時間を共有し、今なお進行形で近い距離で過ごしている。特に違和感もないので、無理に子離れを意識し過ぎていたのかなと思った。


参加者がどことなく似てくる瞬間がある。兄弟み。

また別の時に、娘がホームシアターで一人ドラえもんをみていて、同じ時間に私がサウナでほかの人と過ごしていたことを「娘を放置している」様に見えて心配して声をかけてくれる参加者の方がいた。まずはそういうことを正直に話してくれたことが嬉しかった。逆の立場だったら思ったまま言えてなかったと思う(実際に声をかけずに見過ごした場面もあった)。改めて気づいたことを言葉にする大切さも、声をかけてくれた彼女から学んだ。

予想に反し娘にとっては、日常の多くが、元から頭ではなく心で考えて行動をしていて、予想通り、即効性のある満足は(よくこう例えるのだが)「人生語る人」よりも「人生ゲームを一緒にやってくれる人」であった。そのため、帰路ではより娘と多く会話したり、時間を共有した方のエピソードが多かった。

でも今、東京へ戻り、ふとしたタイミングで対話をしたことの話がぽつぽつ出ているのを聞くと、先に書いた「人生語る人」の言葉は点滴の様に沁みていっているのだと感じた。

どちらも娘にとって必要な人たちと思う。

母娘参加での最大のハイライトは、参加者の方からの「私が娘を呼ぶ声でちょっとザワザワすることがある」というコメント。聞いた瞬間「やっぱり!」と感じ、思い当たる節だらけに感じた。

普段から当たり前の様に、娘の名前を呼ぶ時に
「早くしなさい」「すぐやりなさい」などのネガティブな感情を込めてしまっており、かなり尖ってキツイ音になっていた。
想いを込めてつけた娘の名前なのに、自ら潰してしまう様な行為だなと大いに反省をした。と、同時に自分も親に怒られまくりの頃、やっぱり自分の名前が怖かった時期があったけど同じことだったのかなと、一つ過去を乗り越えることもできた。
ここでも、気づきをくれたメンバーに感謝。

今回のリトリートの参加のきっかけの理由の多くを「娘にとって〜」を接頭につけて話をしていた。もちろんそこは嘘ではないけれど、おおよそは私にとって必要だからであった。はじめは参加が何となく照れ臭くて子どもを言い訳にしていたかも。。と今になって思う。


思い出はこの旅のキーワードを引き出す神様カード

一旦娘とのエピソードからは離れ、今回の私の中での対話の最大の収穫は、父性と母性について話を深められたこと。

父性と母性とは(複数の見解があるなかでの一例です。)
対話の場で自己受容(安心感)は母性につながり、自己変容(緊張感)は父性につながる。そして緊張は安心の上に成り立ち、逆はあり得ないという話があった。
一般的ジェンダーとしてだけの父、母ではなく、思考としての父性、母性をベースに当てはめて考えると、私が今抱えている多くの人的課題が解決に向かうことができそうという感覚を掴めた。(例えば、両者のバランスとか、人間関係の形成やお互いの立ち位置など)
特に私は今、家族をテーマに仕事や生き方、実家族についても未来への姿を考えているので、ある意味家族としての例えは灯台下暗し的な気づきでもあった。

総じてリトリート初体験は、
地の食を味わい、地の神様を訪ね、頭ではなく心で捉え、対話を繰り返し、娘と拡張家族のみんなと共に心地よい時間軸を取り戻していく働きであった。

今回は参加できなかった息子やこれから出会っていく子どもたちとも折に触れて参加していきたいと思う。