「普通のおばちゃん」を目指す、50代「勤労独身婦人」の場合。


こんにちは、初めまして。柴橋美穂と申します。

さて、「普通のおばちゃん」を目指すというタイトル。ええのかな。悩みました。

“上から目線“に聞こえる方もいらっしゃるでしょう。反対に、「いやいやフツーに事実やろ。」という反論があるやもしれません。前者に対しては「とんでもない!」、後者に対しては「ええ、その通りです。エライすんません、イキった物言いでした。」と。なので、このタイトルに込めた意味を少しだけ共有させてください。それが、「なぜCiftで暮らそうと思ったのか?」にゆるやかにつながっていく気がします。

私にとって「普通のおばちゃん」は、子供の頃には普通に周りにたくさんいました。それは、おおらかで、笑顔で、ユーモアがあって、たまにイジワルで、何か悪いことをしたら思いっきり叱ってくれる。「生活する」という人間の基本的な営みにおいて高いインテリジェンスがある…大雑把に言えばそんなイメージでしょうか。

そんないっぱいいたはずの「普通のおばちゃん」がいなくなっていった時期があります。それは、自分自身が時代の流れの中で、そんな「普通のおばちゃん」を少しづつ“見下し”たり、酷い言い方をすると、“敵“だと思うようになっていった時期と同じです。それは、日本という国が高度成長時期からバブル時代、”Japan as No.1“などと傲慢になった時期に、ちょうど10代~20代を過ごした世代ならちょっと理解が出来るかもしれません。

私自身も、雇用機会均等法が出来て、留学でキャリアアップなどという掛け声が出始めた頃に就職活動。バブルが崩壊したら日本的経営の否定が起こり、”黒船来訪”などと言われた外資系が日本市場で勢力を伸ばした頃に、外資系企業就職。生産性向上を主眼とした経営から、「リーダーシップ」「ロジカルシンキング」「コミュニケーション」能力開発が人財育成の柱といったような“大きな波”にじゃぶじゃぶと洗われて、当たり前のように仕事中心の人生を選択してきました。悔いのない、とても楽しい「ランナーズハイ」時代です。

そんな、カラダもココロもズタボロでも仕事ができる人にかかった一番大きな「強制終了」が介護でした。40代入っての遠距離介護、途中から父母ともども。そして自分も倒れて入院。そんな時、私の人生にまた「普通のおばちゃん&おばあちゃん」達が沢山わらわらと現れて陰に日向に助けてくれました。

“赤の他人“と言ってもいい人達が、父母のことや私のことを、あたかも「自分の家族の一員の問題」のように考え、動き、何の大きな見返りも求めない。直接的なケアでなくても、ただ私のためにお風呂を焚いて、ご飯をつくって、一緒に食べて、お布団をひいてくれる。そんな人達にいろんな意味で助けられました。

そんな私はまた懲りずに仕事中心の世界に戻っていくのですが、自分の人生を深く見つめ直す転機の一つだったように思います。さらにいうと「普通のおばちゃん」というのは「何をしている人(Doing)」ではなく、「どうある人(Being)」なのだ、と体感し、納得し、これが自分が戻る”場所”だと決意できた、そんな出来事だったのかもです。

では私にとっての「家族」とは? 人間関係の縮図。

私は高度成長期の家族の典型、「核家族」で生まれ育ちました。新聞記者だった父と専業主婦の母と一人っ子の私。

今から考えると、高度成長期の夫婦・家族が持つ課題が満載の家。

それでも”The 昭和“の匂いそのままのご近所づきあいで、まわりのおっちゃんやおばちゃん、同級の仲間たちに育ててもらいました。そんな環境が、私にとって「家族」とは何かを考え、そしてまったく考えないことになっていったようです。今、私にとって血縁者であり、法的な家族は、母だけになりました(現在は特別養護老人ホームにいる)。

さて、ここから本題。「Ciftに参加した理由は?」

上手く言えない「偶然の流れと出会い」が契機にあり、そこでたまたま出会ったコンセプトの「自立した個人が、『拡張家族』で共に暮らし、共に働く」に共感した、以上なのです。そこに、「普通のおばちゃん」と「家族」というキーワードが浮かんでいます。言葉にするとなんとなく嘘っぽくなることを認めてあえてちょっと深堀りトライしてみます。

まずは、今までの人生で「個」を最大限に立たせた生き方を選択してきた自分が、その人生でちゃんと向き合いきれていないと感じている「家族」と名の付く、しかしながら「自立した個人」で構成される“生活する共同体”を、ゆるやかに体験してみたいという純粋な気持ち。

次に、その「拡張家族」の中で、紆余曲折あったものの自分が戻る“場所”と感じた「普通のおばちゃん」で存在し、ひょんなご縁で「家族」となる構成員の一人ひとりとゆるやかに静かに交わることで、私自身が、そして、ご一緒する「家族」の人達の中でも何らかの変化・変容があるかもしれない、そんなことになると面白いなあ。

ひいてはCift自体も変化・変容し、「家族」の概念・あり方も進化するモーブメントになるのかなあ、そんな未来、嬉しいなあ。こんなことを妄想している「普通のおばちゃん」を、Ciftの「拡張家族」として受け入れてもらえれば幸せです。

(2018.06.19)