拡張家族がやろうとしていることは、家族という概念からの解放ではないか。


Ciftが提唱しているコンセプト「拡張家族」はとてもキャッチーであると共に、誤解を生みやすい言葉である。Cift歴が長くなったので、ひとまず私なりの見解を置いておく。

この概念をふわっと答えると、これまで血縁的に家族ではなかった人と、「家族になる/家族として捉える」という意味で、これまで家族じゃなかった人と制度的には違うけど、意識として家族になる、「家族を拡張」させる実験をシフトはしているといえる。

ただし、トリッキーなのは、人によって家族観が全然違うので、「家族だからこうすべき」という話がぜんぜん通じないのである(笑)。事件があるたびに、お互いが論じている家族観を紐解くことになる。それはそれで家族研究という意味では、意味のある活動であるが、毎度毎度対話が大変だ。

ところで、こういう活動をすると「家族」という言葉の定義を調べることにもなる。すると明治維新以降政府が、旧民法のもとで、国民を管理しやすくするためにつけた、戸籍制度から生まれた言葉らしいとわかった。まあなんとも味も素っ気もない用語である。

しかしながら、現代この家族という言葉に、色々な温かみを持って使われていることが多い。そこに向けられる憧憬は、親が子、子が親にもつような。他者の痛みを自分の痛みと感じ、他者の喜びを自分の喜びに感じられるような、人への愛であろう。

では、Ciftはなにを目指し、拡張家族は、何を意味しているのか。

私は、Cift=Co(共に)+shift(変化)と読む。

他者と人生として、共に生きるということ。

別にそれは無理して関わりまくるということではなく、自己選択の自由の下に、他者の人生を感じ、愛し、助け合う取り組みだ。

言い換えると、拡張家族とは、家族制度に関わらず、人生目線で人と関わる人々のことである。

大切だなと思う人が増えていくと共に、私の中で「家族」が解体されていく。