京都下鴨修学館がどんなふうにリノベーションされるか、前回は各居室について紹介した。後半の今回は、共用部、ソーシャルスペースを巡っていく。
今では「拡張家族」という語り口がとくによく知られているけれど、Ciftのはじまりに模索されたのはきっとつながり方の方法論だったろうと想像している。家族はメタファーだ。ではこのメタファーが鏡像として表そうとしている実態は何なのか。前回見たように、コントロールを手放してはいても、空間のアフォーダンスは大きい。「ともに暮らす、ともに働く」の社会実験をするにあたって、共用部はコミュニティのあり方を規定する。
玄関を入ると、階段を挟んで左右に廊下が伸びている。アイストップとなる階段室は、白い内装に照明用電源を仕込み、飾り棚のようにも行灯のようにもなる。右に行くとCift棟、左側にランドリースペースとシャワールーム、それに浴槽付の独立したお風呂。この広いお風呂は立ち上げメンバーの一人だった近藤ナオの激推しが形になったものだ。
左は一般棟。その間にキッチンとリビングダイニングがある。キッチンは中庭側で、キッチン側と区内側の両面開口だ。中庭に向かって開けば半戸外、隣接するリビングダイニングに向かって開けばLDK。もちろん全部をぶっとおしで使うこともできる。80人の大家族Ciftに欠かせない、「食」を共有する空間だ。リビングタイニングには、テーブルあり、ごろごろできる畳スペースあり、玉砂利を敷いた縁側スペースあり。縁側の向こう側は疏水分線だから、全部解放すれば、疏水からの風が中庭のウッドデッキまで抜けるだろう。春は桜、ちょうど今頃は蛍が飛ぶだなんて、想像するだけでも目が細まる。
そして、なんといっても中庭だ。Cift京都は、「食」を生活の土台と考え、庭(土)を中心とした暮らしづくりをしていこうと考えている。この3年の実験を経て第二創業期に入ったCiftではちょうどリビジョンメイキングの取り組みが走っている。一昨夜、数時間にわたって行われたセッションでは「たくさん一緒にご飯を食べたけど、どれだけ意識家族になれたかな」という問いも出ていたが、いや、しかし「ともに食べる」は「ともに暮らす」の中でも生命を支える部分で文字通り入り口を担う。人間が日々行う「入力」のなかでも、とりわけ繊細で根本的で始原的、そして頻度が高く、人生のほぼ全期間にわたって必要なインプットになる。これは重視した方がいい。そしてその「食」を支えるのが「土」である。日常の使い勝手を広げるためにウッドデッキも設置はする予定だが、重要なのはそこではない。
2009年から12年まで、東京・丸の内オアゾの丸善本店4階に松丸本舗という本屋さんがあった。私が師匠と仰ぐ松岡正剛がつくった書店in書店だ。物理的には大きくはなかったが、懐の深さは銀河系のようで、選びぬかれた本を受け止める7つのゾーンには不思議な名前が冠せられていた。「遠くから届く声」「猫と量子が見ている」「脳と心の編集学校」「神の戦争・仏法の鬼」「日本イデオロギーの森」「茶碗とピアノと山水屏風」「男と女の資本主義」。迷路のように入り組んだ本棚の森に、あらゆる本たちが吸い込まれていた。
今回、Cift京都のコンセプトを組み上げるにあたっては、松丸本舗のプランニング編集術のひそみに倣い、「土・家・人」の三位一体に、いくつもの三単元モデルを組み合わせて、可能性の関係を立体化してみた。そのおおもととなったのが、プランニングディレクター山倉あゆみと、パーマカルチャーデザイナーで実践者の杉山知己が打ち出した「フードフィールドとしての庭」という考え方だ。「食」を生活の土台と考え、庭(土)を中心とした暮らしをつくる。中庭や土間や縁側が中と外をゆるやかにつなぐ、日本的コミュニティスペース。背景にあるのは、循環性と土地性と哲学性である。これを可能にする京都×下鴨×修学館という場所のちからが、彼らのコンセプトを加速させた。
いま、Cift京都が考えているのは、フードフィールド(食べる庭)をさらに一歩進めた「食べられる暮らし」のあり方である。「エディブル・ライフ」と呼んでもいい。新生修学館の土の庭は、人が生きるという活動の基盤がどうなっているのか、今それがどれだけ遠くなっているか、しかし尚できることは何なのかを考える土壌にもなるだろう。V字型の建物の内側に面した部屋はすべてこの庭に向かって開くことができる。おいしい実のなるみかんとレモンと柚子をはじめ、既存の植物を残しつつ、さて、ここがどう生まれ変わるか。ここは京都と土に詳しいオーナーの宮崎さんにもぜひご教示いただきたいところでもある。
ソーシャルスペースは2階にもある。なかでも、2階角の大リビングは、以前のレポートでも紹介したとおり、新生修学館を象徴するスペースのひとつとなっていくだろう。長辺に向かってI字型のロングテーブルを置き、疏水に向かって開いた京都らしい空間になるようすがありありと想像される。それとは別に、一体型カフェキッチンを配した談話室ができる。ここは窓に面したカウンターテーブルがあり、ワークスペースとしても居心地がいいだろう。
最後に、内装決めの日に爆誕したカウンターコーナーに触れないわけにはいかない。建物はV字型で、廊下が広い。2階の角にはけっこうな広がりのあるスペースが生まれていた。「ここ、何かできそう」。内装決めの合間に、設計の土橋先生、オーナーの宮崎さん、Cift山倉の3名が意気投合し、「カウンタースペースができるかも」と盛り上がった。
「ハイチェアとかあるといいかも」
「ちょっと立ち呑み的とかできるような?」
「そらええわ」
階段の壁面を利用するから面と向かう接客はできないが、横並び推奨の現況だとかえっていいかもしれない。どんな立ち呑み屋がスタートするかしないか、女将は立つのか立たないのか、お楽しみに。
こうして一気に語るとまっしぐらに進んできたように聞こえるかもしれないが、実際はまったくそんなことはない。そもそも私はこのCift京都計画を、イシス編集学校で伝授された松岡さんのプランニング編集術の方法論を敷いて考えてきた。一直線にゴールに向かうマイルストーン発想ではなく、生成していく流れを読みながら舵取りする生命にあやかった編集術だ。
松岡さんが『知の編集工学』でこう書いている。
結論を用意しておいてもしょうがない。それでは場の編集にはなりがたい。仮に最初から結論めいた発言が出てしまったとしても、それは結論ではなく、発端にするべきなのである。
また、「エディティング・プロセスとは時間や環境や意識とともに同時進行する」とも言っている。
それゆえ編集は、時間とともに変化をする環境条件や意識の深化によって進行し、次第にそこにかかわるすべての関係を変容させていくところに醍醐味がある。エディティングの進行は、ひとえに関係発見的なのである。あらかじめ決められた配置に話をもっていくのはエディティングとはよばない。それは談合であり、妥協なのである。
今、このことが少しだけわかる気がしている。これまでどれだけ妥協してきたかという切なさと共に。Ciftとイシス編集学校はどこかしら似ているとずっと感じてきたが、これは結構な要所ではないかと思う。要するに「めんどくさい」を厭わない。否、その「めんどくささの先にあるもの」を信じている。
効率も多数決もリスク論もアカウンタビリティーも資本主義も同じ温床に育った。ならばここからは、めんどくささと対話とネクストパラダイムの方を育てたい。いや、といっても、何もCift京都がめんどくさいと言ってるわけじゃないですけどね。そこを心配するより、「その先にあるもの」にこそ賭ける方が楽しくないですか?