「くまちゃん、我々と家族になりませんか?」と言われて。


渋谷に出来たばかり新しいビル、キッチンが広くオープンスペースが開放的な「お洒落な」家に遊びに来てたいただったのに。ただ単に友人がつくる鍋を食べに来てるいるだけだったはずなのに。

「くまちゃん、我々と家族になりませんか?」なんて言われたときの得も言われぬ感覚。「なんだよ、家族になるってさ。」好奇心旺盛で実験好きな自分の心が惹かれた「拡張家族」という言葉。

「家族」とは社会共同体において単位の一つとされているが、血縁に限らず広い人間関係が一つの共同体化したとき、自分の幸福感はどのように変化するんだろうか?あらためて「家族」という単語の定義の難しさや、柔らかさをたのしんでみたい。

そもそも、歴史学者の三石晃生さんによると、明治初期の時点では、familyは眷属と訳し、householdの訳で家内、次に家族とでて、家族の概念は明らかに西洋のhouseholdのあり方を訳したもの、もともと概念としても日本には存在していなかった。家族には西洋的な意味合いがあるので、日本人に家族だろ、といってもわかりにくいけれども、身内だろう、やからだろうと。

では、イメージの中の「西洋家族」それそのものが物語の中心である、映画「ゴッドファーザー」。洗礼上の名を授けるシーンと、忠誠を誓うメンバーに対しての、マフィアのゴッドファーザーが名付けを行うシーンの重ねは、いま揺らぎつつある「父」的なものの問いを明確に浮かびあらがせ、意識的で美しい。ラテン語のFamiliaこそがマフィアのファミリーを示す言葉とも、そこには血縁などではない強い共同体が描かれます。

一方華僑的な世界観の、「世界は信用と信頼が身体的にある前提とした、ファミリービジネスに再度帰着する。」なんて台湾の華僑の中心的なおじいちゃまが自信に満ちた顔で言っていたことも思い出します。

世界中、僕は、様々な旅先に、まるで家族のように向かう仲間、アーティストとしての活動において、家族のように信頼する仲間も増えて来ている実感のなか。20世紀の後片付けが終わり、一気に社会が変わろうとしている今。

何もかもが個に分断され「実感のありなしはさておき」ほぼすべての生活空間の活動に、ランク付けやデータ移動や法定通貨を関与させようとしている、現行ルールや力学を相対化しようとする魅力で野心的なチャレンジ。

もしかしたらCiftってヒッピーカルチャーのコミューンみたいなもの? 他者からは宗教的にみられちゃうのかなと。ユートピア? 空想? まあそれはさておき、自分の故郷にほど近い渋谷の地を中心に、鎌倉、京都、オンラインの空間に、実際の行動を伴ってる進めている人たちともに、新しい共同体をつくってみたい。

向き合う他者を増やしてみたいそんなひとにお薦めです。

#それがciftに参加する理由。

大月 信彦