はじめに
「自立と共生」というようなことを考えて生きてきた。
人間はもちろん、生きとし生ける者は全て本質的に利己的にできており、自己に向き合わないまま行う利他的行為はきっとどこかで崩壊するし、むしろその利己性を正しく認識した上で、内発的な動機(自らの責任)で選択した行為の方が結果身の回りに好循環をもたらす。それぞれの“個”のカラーがはっきりしている方が、異なる個と掛け合わせたときの化学反応も面白い。ざっくり言うとそんな考え方だ。
私は登山が好きでよく自然の中へ出かけるが、森はそのあたりよくできている。大気循環を考えてCO2を吸収したり、隣の植物を気遣って自分の丈感を調整している訳ではない。自らの遺伝子を守るために適した仕組みを追求した結果、いまの姿かたちとなっており、そういった様々な“自然体な利己”が絶妙なバランスで組み合わさってひとつのエコシステムとして機能している。
自らの自然体な利己の上に立ち、かといって単体で生きていく訳ではなく、また違う個と出会い、共に生きていく(作為的に何か為すのではなく自然体の姿で共に在る)、、そんな姿が理想だ。
「利己」を追求した結果としての「利他」
利己のために利他を考えざるを得ない時代になっている、と思う。便利さを追い求め、利潤を稼ぎ、自己実現を突き詰めていく時代は終わった。十分に便利な世界であるし、地球資源も限界の声を上げている。これからは、本質的に利己的な人間が(共生プラットフォームに害をもたらしているのは主に人間であるので、ここではいったん人間にフォーカス)、自分達の遺伝子を維持するためのhowとして、どう共に生きていくかを考え得ざるを得ない、という状況なのだと思う。
ここで言及しておきたいのは、利己を劣後にするわけではない、ということだ。おそらくそこは遺伝子レベルでプリセットされているので、環境問題を認識したからといってじゃあ利己を手放そうとはならない。あくまで利己が主軸にあり、そこを追求するという生物としての極めて自然な欲求として、“結果”利他的な視野も持つ必要が出てきている、という話だ。かりそめの義務感で動くよりも、そちらの方が“サステイナブル”だ。いかに人々の「利己」を「利他」へ繋げるか、というようなことがポイントだと思う。
「利他」への接続、もしくは「自己」自体の拡がり
さて、では利己的な私たち人間は、どうしたら共に生きていけるのか。
そんなことを考えているときに、Ciftに出会った。「相手を家族だと思ってみる」という思考実験は、自然体の共生を模索するやり方として、ありだ、と思った。自分事に捉えざるを得ない(≒自己)領域が否応なしに拡がり、結果として利他的な視野へ繋がりそうである。その営みに参画している人々にも興味がある。
正直「拡張家族」という言葉がまだしっくりきている訳ではない。でも、きっと言葉に表現されるものは実態のごく一部に過ぎないし、きっとその実態はいまの自分の考えと近い気がする。
自然体の利己が、Cift、全人類、ひいては全生物へとゆるやかに広がっていく世界観を思い描き、Cift入居の記念ログとする。