家族の良さと、家族じゃない良さ


私の家族は、客観的に見て「とても良い家族」だった。
幼い頃、父は休日になれば必ず遊びに連れて行ってくれたし、母は料理が苦手なりに、毎日懸命に手作りの料理を並べてくれた。近所でも評判のおしどり夫婦。兄弟は、私の下に弟と二人の妹。
6人家族の賑やかな毎日は、まさに「幸せな家庭」の象徴のようだった。

そんな家族に、私がヒビを入れてしまった。
中学2年生で発症した拒食症。
食べることがこわくなり、体はみるみる痩せ細っていった。身長160センチ、体重23キロ。「いつ死んでもおかしくない」と医者に宣告されるまで、時間はかからなかった。
急変した私を前に、家族は戸惑い、必死に手を差し伸べてくれた。けれど、私への接し方を模索する中で、家族の足並みは少しずつ乱れていった。
仲の良かった両親が、外出先で激しく言い争う姿を目の当たりにしたとき、「生まれてきてごめんなさい、ごめんなさい」と心の底から自分を呪った。
同時に、ある感情が私を支配した。
「血が繋がっているから、義務感で支えてくれているだけじゃないか。もし血の繋がりがなければ、私は誰からも必要とされない存在なのではないか」
家族の向けてくれる優しさを、真っ直ぐに受け止められなくなっていた。
そんな私を闇から救い出してくれたのは、高校で出会った友人だった。
彼女は、私を必要としてくれた。
血の繋がりなんてないのに。

その関係が、私の枯れ果てていた自己肯定感を少しずつ潤してくれた。
「生きていてもいいんだ」と思えた。
自分を肯定できるようになると不思議なもので、家族の優しさも素直に受け入れられるようになり、心から感謝の気持ちが湧いてきた。
そうして、6年に及ぶ長い闘病生活に終止符を打った。
家族という存在に救われることは、もちろん多い。
けれど、「家族じゃないからこそ」救われることも、きっとあるのだと思う。
もしかしたらCiftは、家族の良さと、家族ではない良さ、その両方を持ち合わせている場所なのかもしれない。
もちろん、両方の「面倒くささ」もセットだろうけれど。

私は今、拡張家族の一員になろうとしている。
かつての絶望を経て、こんなに面白い問いと向き合える今がある。
「生きていて良かったね」と、あの頃の自分に伝えてあげたい。