「家族」を、血縁の外へとひらいてゆくこと。 それは、ずっと探していた「22世紀のかけら」だった。


迷い込んだ、田舎のスナック。地元のおじさんから、託されたもの。

「この街にはもう、希望がないのよ。
若者は来ないし、仕事はない。」

大学に入る前、初めての一人旅で訪れた、ど田舎のスナックで、
地元のおじさんは、都会育ちの僕に日本の地方の今を教えてくれました。

「お前さん、京大生になるんか!
そりゃもう、日本のために頑張ってもらわんとな。
おっちゃん、楽しみにしてるからな」

苦労が刻み込まれたしわくちゃな顔が、
ほんの一瞬だけ、嬉しそうにほころんでいました。
未来を待ち遠しそうに。

たったその一言だけで、
放任的な家庭で、孤独に生きてきたぼくは、
人に初めて期待してもらって、嬉しくて、嬉しくて。

「世の中の仕組みを変えていく人になる」
託された希望を、決意へと変えたのが、その時でした。

大学の授業を投げ捨てた瞬間、人生の旅が、はじまった。

そして大学に入って、一年。

あれほどやる気に燃えていた勉学は、
もはや手に着かなくなっていました。

大学で教えてもらう既存の経済学や政治学は、現代社会の分析と改善には役立っても、これからの100年の行く末を照らすほどのものではない。
問うべき問題はもっと深淵にある。

そんな違和感から、「現代とはどんな時代なのか?」「人間とは本当は何なのか?」と、世界を広く俯瞰し、深く洞察する孤独な営みが始まりました。

答えのない問いを抱いて、暗闇を手探りで進む日々。
積みあがる本の数々。

一筋の光明が見えたのは、三年生の夏。ヒグラシが鳴く10月の長野でした。
ふと訪れた山の中で、草木や小鳥、虫と人々が、みんなで生きている。

それぞれの小さな命が織り成す、森という大きな命。

そうか。命は、個に閉じていない。
開かれているんだ。つながっているんだ。

この世界に散りばめられた、いくつもの「22世紀のかけら」

汎神論、生命論、動的平衡、自己超越、真我、共助などのワードと相まって
近代的な個人主義・還元主義的なパラダイムを乗り越えるヒントを自分で見つけた瞬間でした。

ポスト近代のテーマは、「個として自由、全として共生」
という一見相反する両者を調和的に発展させることではないか。
(近代は、前者だけを優先した結果、共生・つながりが失われてきた)

それをつなぐカギは、
「自分とは、個人であり、そして全体でもある」
「あなたは、あなたであり、わたしでもある」
という意識レベルでの生命観・世界観のシフトではないか。

そうだとすれば。

近代以来の資本主義的なメカニズムの中で、
人が個としての自由や利便性だけを求めた結果、
血縁的な大家族や地縁的な村、そして最近では企業といった、
従来型の個人を超える共同体が後景化しつつある今、

何が個人を超える共同体を意識するものになるのか。
どうしたらそんな意識を育めるのか。

そんな問いに向き合いながら生きているのが最近でした。

そして出会ったのが、

「血縁ではなく、意識でつながる、拡張家族

それは、まだまだ概念的にも実践的にも不完全ではあるにせよ、
十分に探求に値し、そして何よりワクワクする、

22世紀のかけら」でした。

一方で、自分自身も、こんな変なことを考えてるようになって以来(笑)、
心から共感してくれる人に出会うことはまだ少なく、
それが不安や孤独、そして弱音につながることが大いにありました。

だからこそ。


自分の甘えも弱音も不安も全部出して、自分以外の存在に安心して頼れるようになりたい。
そして、22世紀の社会に向けたヒントとしての「拡張家族」をもっと探求し、広げたい。

そんな想いで、今、ここに立っています。

旅はまた、始まりました

高浜 拓也