自己受容するリトリート


2023年は拡張家族Ciftのメンバーと浜松で対話リトリートをすることからはじまった。
奇しくも「どうする家康」の放送開始日に浜松にいたことにあり、「鎌倉殿の13人」の街で暮らす自分としては引き継ぎバトンのような縁を感じなくもない。

阿多古屋にて八名で今回の対話リトリートは開催された

Ciftにおける対話リトリートの意義

2020年の夏至に代表理事のバトンを渡してから、僕は一歩引いた立場からCiftの物語がどう発展するかを見守ってきた。
ただ、2022年の秋分あたりからNestoの経営方針などの環境変化や同時にCiftに関わりを引き戻されるような出来事もあり、自分の中でのCiftへの立ち位置により戻しが起きて今回の対話リトリートを企画・実行する運びになったのであった。

Ciftにおける対話リトリートとは暮らすシェアハウスを補完するものであろうと考えている。
Ciftは当初から「平和活動」と「拡張家族」と「自己変容」を以下のような目的と手段の因果関係を結んだコンセプトを持っていた。

 

Ciftのコンセプト

Ciftにとって暮らしを共にする日常とは、わたしが自己変容を通じて、私たちが拡張家族になろうと挑戦をする人生の「修行場」であり社会的な「実験舞台」であるというの当初からの思いだった。
しかし2017年に産声を上げて5年半ほど経つ中で、掲げていた目的意識は徐々に薄まっていくのを感じていた。
それは日々忙しくストレスもある世俗社会の中で、自分が安心を感じるべき暮らす拠点を修行場や実験舞台にすることの現実的な破綻だったのかもしれない。
もしくは淡々と続く日常がエントロピーの法則として徐々に低き方に流れていくこともまた物理法則のように必然かもしれない。

Ciftがコンセプチャルに修行場であり実験舞台であり続けるためには、非日常的な刺激を与える必要があると感じた。
そしてそれは、父性的な性質を持つ自分の持つ役割であろうと自覚するところもでもあった。
僕はこの第三期とも言えるCiftにおいて、自覚的に日常の周縁に非日常の刺激的な場をつくる役割を担おうと思うことになる。
それがこの対話リトリートのCiftに向けて開催するまでにあたる思いである。

三日でわたしが私たちになれるか

対話リトリートは二泊三日で行われる。
三日間の中で個としてのわたしの境界線がどれだけ溶けて私たちになれるかをみんなで挑戦する場である。

あなたとわたし、他者を自分が対峙すべき相手の投影体として感じられるか。
あなたもわたし、他者を自分の在り方の写鏡のようだと感じられるか。
他者の物語に共感し、他者のゆるしに涙し、他者のきづきに肚落ちするできるかどうかを目指していく。

例えていうならば、海面(表層意識)に各自のボートから、海中へとダイブする感覚かもしれない。
プログラムの時間を経過するごとに徐々に深まり、そして海底で仲間たちと地球のコアと一つに溶け合っていくような旅路をイメージしている。

私たちの対象は参加者だけではなく自然も含まれる。
その土地のモノを食べて、その土地の温泉に入り、その土地の神社に挨拶をして、その土地から星空を眺める。
三日間の純粋に探求をすることを許された非日常の時空間は、深い意識帯に潜っていくことをある程度容易にさせてくれる。

ディープすぎる儀式や修行でもなく、ライトすぎる観光や飲み会でもない。内に向かう対話だけでもないし、外に出歩く体験だけでもない。
ホストが全てを導いてくれるわけでもないし、参加者に選択を委ねすぎるわけでもない。
それらの中道としての在り方をこのリトリートでは模索しつづけていきたい。

自己変容と自己受容

ここまでは対話リトリートの建て付けなどを記述してきたが、ここからは今回の浜松で行われた時の気づきなどについて書いていきたい。

前述したようにCiftにおける私へのアプローチは「自己変容」であった。それは自ら内省して同じパターンを繰り返している自分の在り方に気づき、それを終わらせていくアプローチである。
自己変容とは自分の内側に否定力をかける緊張を伴う父性的なアプローチだ。

自己変容だけを追求することが自分の特性からくる無自覚的なアンバランスなコンセプトであることを今回の対話リトリートで気づいた。
自己変容の前に自己受容が大事であったのだ。
そして自己受容できていない人がほとんどではないか、と思うようにもなった。
実際に僕の本質的な在り方をようやく自己受容ができたということを違う記事で書いた。

ある教育関係の友人が人が健全に成長するための黄金法則は「安心」の上に「緊張」が乗っかっている状態だということで、逆はないということだった。
これはまさに自己受容の上に自己変容があるという構図とぴったり重なる。

自己受容の上に自己変容がある

また、自己受容にもどうやら三つほどのパターンがありそうだ。
一つ目は、自己の在り方に反応してしまい「反発する」在り方。自分を見つめることの恐怖から頭を使いなんとか異物を除外しようとする。
二つ目は、自己の在り方をしぶしぶ「受け止める」在り方。フラットにジャッジせず異物の存在を認めることで境界面で保持している臨界面。
三つ目は、自己の在り方を受容して「受け容れる」在り方。勇気を持ってハートを開くことで異物をゆるすことで自分の内部に取り込んでいく。

自己受容の3パターン

自己変容(自己受容ではない)は蝶のメタモルフォーゼのメタファーで語られることが多い。
つまり、自己変容は異物を受け容れて一体化しなければ溶かしようがないので、自己受容できていることが前提条件となる。
さらに言えば、異物を受け容れた瞬間に自己統合としての変化が起こる。
その変化は体感覚として自己変容が起きていると感じることも往々にしてあるだろう。

ハートの声をきく場づくり

元々僕は父性的で頭でモノを構築的に考えることが好きだし強みだと思っている。
しかし、どうにも周りから求められるものは対話の類が多い気がしている。
それは大きな流れの中で、僕に課されている宿題がハートの声を聞いてゆるすということをトレーニングすることだと言われている気がしないでもない。

僕にとって対話リトリートは、参加者が安心感の中で徐々にハートの声がきこえ自分をゆるし自分を受け容れることで癒しが起こる場づくりの挑戦だ。
無意識的に頭をつかった気づきの場はつくってしまっているので、顕在意識ではそれくらいアンバランスな方がバランスがとれるのだろう。
2023年は前のめりになりすぎない在り方をゆるしていくのが一つの方針。自分をチューニングするにも対話リトリートの場をご縁を紡いでつくっていきたい。