Cift内では様々な役割があって、その役割を担う人は自発的に役割を担ってくれています。当初無償のボランタリーで役割を担ってくれていた人もいたのですが、コミュニティに必要な役割を無償でやり続けるというのは疲弊することも多く、少しではありますが、みんなで支払っている組合費の中から役割を担う人にお金が支払われています。
一方で、みんなの組合費からお金が支払われるということになると、当然のように「役割を担う人は、活動の報告や情報共有をすべき」といった話が出てきます。まるで、国の税金の使い方・使われ方や、株主が企業に求めるIRのように。
さらにはここに「愛」が加わって、報告を求めるのは役割を担う人への愛が足りないのではないかとか、いやいや、愛があるなら当然報告をするでしょう、なんてことになったり。いろんな価値観が出てくる。
そんな背景の中で、2020年5月24日時点で自分が感じていること。おそらく哲学的な問いの中で今後考え方は変わっていくと思いますが、現時点のものを備忘録的に残しておきます。
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報告や情報発信や共有のこと、考えてくれたり気にしてくれたみんな、ありがとう。特に、ざびさんの素直な気持ちとか、その通りだよなあと思ったし、たぶん同じようなことを感じている人が多いのではないかと思ってます。このテーマは、今後もことあるごとに各自向き合う必要があるのかなと思いました。
で、この三日間いろいろと考え、少しだけ自分の感じていることを言語化してみます。長文失礼。
まず、僕は、今のCiftの情報発信や共有のされ方は、自分が望んでいるCiftの世界観に照らし合わせると、足りないなと感じているし、もっと気軽に、ありのままの日常の出来事が、Ciftのメンバーにはもちろん、社会に発信されていてもいいのではないかと思っている。これは義務とかそんな話ではなくて、単に、その方が自分たちにとっていいんじゃない?という話です。
例えば、下記などがいろいろ発信されていたらどうなっているだろう?
・もし、キャストのキッチンの様子(楽しそうなごはんや、散らかり汚された水回りなど)が日々発信されていたら?
・もし、松濤が立ち上げ当初から楽しそうな様子やDIYの様子が日々共有されていたり、京都の様子が日々発信されていたら?
・Cift入会希望者の説明会や面談の様子がことあるごとに発信されていたら?
・会計の様子が日々発信されていたら?
もしかしたら、みんながいつも意識してきれいに大切に使っているキッチンやリビングで、ご近所さんも楽しくご飯を食べて、友人もたくさん遊びに来て、入居者募集に困ることもなくて、組合費がたくさん集まるどころか、組合費以外の方法でお金を入れる人が増えたり、Cift外からもお金が寄付されたり、助けてとかお金がもっと欲しいとか気軽に言えるようになったり、入居前・直後のトラブルが減ったり、新規メンバーともっと早く仲良くなれたりするかも。
などなど。
単に、「周りを巻き込んで自分のやりたいことを進めたいなら、自分がやっていることを周りに知らせないと、周りは気づかないから巻き込まれない」というだけの話なのではないか。もちろん、巻き込む必要がない・リーダーシップを発揮する必要がないのであれば、周りに知らせる必要はないですが。
自分の役割を巻き込んで進めたいと思っているのであれば、反応(見返り)は期待しないで、ただただ発信する。なんの無理も粉飾もせずにありのままを発信し続けてみる。そうすると、何かが変わってくるんじゃないかなあ。少なくとも僕は、Ciftの中で使われたいし巻き込まれたいと思っているけど、日々何が起こっているのかのありもままを感じられないと、自分の使い方・使われ方が分からないし、巻き込まれたいとも思えない。
次に、お金と自分の関係性について。「報告・共有は義務なのか?」について考えてみたら、お金と自分の関係になっちゃいました。
結論から言うと、「報告・共有を義務と感じるのは、お金を払う側も受ける側も、お金を労働の対価として捉えているからではないか」という仮説です。
・お金を払っている側は、役割を担う人への感謝や(無償の)愛をお金にのせていない。なので、報告という見返りを求める。
・お金を受けている側は、受け取ったお金に対し感謝や愛で応えていない・応えることから逃げている。そのお金には払った人の物語があることに気づいていない。なので、報告をするのは当然と言われることに違和感がある。
お金を払う方も、それを受ける方も、お金を単なる「労働の対価」と捉えているから、「報告・共有すべき」「違和感がある」になるんじゃないかな?と。お金を支払うときは感謝や愛の感情をのせたり、受け取るときは物語が含まれているんだという意識を持つと、お金と自分の関係性が変わったり、付き合い方も変わったりするんじゃないでしょうか。
僕が共有したい世界観は、労働の対価としてお金がやり取りされる世界ではないなあ、と。
以上が感じたことです。