「ああ、形骸化させる張本人は、オリジネーターだわ。」
その日、その一言には異様な重さがあった。
その重さはブラックホール並で、会社員をしている私の生きる世界の言葉とは、一線を画しているように感じた。正直ちょっと怖かった。
それを言ったのは藤代健介さん。私が知る限り誰よりもオリジネーターであるはずの、Ciftの創立メンバーだった。
それは健介さんと近藤ナオさんのダイアローグの中での一言だった。
その時健介さんは、ナオさんと対話しながら数名のCiftメンバーとCiftの現状ーーー特に、機能不全に陥ったCiftの組合費や役割と、その機能不全に伴って混乱した先日の対話について話していた。
「俺、反省した。俺たちの学びだよ。
人事体制、組合費、チーム体制、俺のマイプロジェクトだったの。
ビジョンがあったからやってたんだけど、俺が抜けたときに俺の役割自体を潰さなきゃいけなかったんだなって、俺は思った。
だって、すげえ形骸化してる。
誰もその理由もわからず、その意図も、挑戦しているすばらしさも、継続している理由もわからず、ただ継続している。
ああ、形骸化させる張本人は、オリジネーターだわ。」
…そんな悲しいことって、あるだろうか、と私は思った。
対話は進む。
ナオさんは言う。
「Ciftという土壌は残っていてほしい。でもCiftをふくよかな土地に育てなくてはならなくて、結果ギスギスしちゃって、誰も種まかないなんてのは意味がない。
…もう、壊せばいいんじゃない?組合費も役割も。壊れたら、誰かが出てくるから。」
健介さんも同意見だ。
「Ciftという船が現状維持したほうがいいという、前提のもとに話が進んでいる。
むしろ実験なんだし、遊びなんだから、潰れていくところをみんなで観察したほうが楽しいじゃん?」
Ciftメンバーが応える。
「面白い。5周年祭で一回全部なくそう。一回全部まっさらにする」
「Ciftゼロ。」
「それやりたい。一回全部ゼロにして、私がこれをやりたいって想いのあるものだけが残る。」
何やら対話はとても盛り上がっている。
どうやら一度Ciftをゼロにする方向で話が進み始めているようだ。私は、Ciftの渋谷CAST拠点に翌月引っ越す予定だったので、内心、気が気ではなかった。
でも、『住むとこなくなっちゃったらどうしよう』という不安に駆られた一方で、とてもワクワクしていた。
自分たちが魂を込めて作ったものを壊す、そこに新しいものを生む。それってなんだかとてもクリエイティブだ。
それは一年に一回、砂漠の真ん中に7日間だけ現れて最後の日に燃やされてしまう街、アメリカ西海岸の祝祭・バーニングマンに似ていると思った。
そういえば、バーニングマンのブラックロックシティも資本主義経済の外側、シェアによって成り立つ共助の街だった。
私の中でCift5周年祭のイメージが見えてきた。
そのイメージは正解なんだろうか。正直よくわからない。
よくわからないまま突っ込むのは、ちょっと怖い。早く対話しよう。
とはいえ、初めての5周年祭、せっかくなら私も何か役割をやりたいと思った。
だって、『実験なんだし、遊びなんだから、その方が楽しいじゃん?』
私は健介さんの言葉を思い出した。
最初はちょっと怖かった創立メンバーの気持ちが、少しわかるようになった気がした。