ポスト資本主義システムのデザインに挑む。元外資系コンサルがCiftに入った理由とは?


2015年3月、「僕がアクセンチュアを辞めた理由」というブログを書いた。

新卒から34歳まで勤めた会社を辞める個人的決断を記したものではあったが、反響があり話題になった。(3年経ったいまなおgoogleで「アクセンチュア」を検索するとトップページに留まっている。)

当時、社会における自己の価値を最大限に高め、物質的、金銭的、精神的な究極の自由を得ることができたという自負があった。一方で周りを見渡せば社会はよくなるどころかむしろ悪くなっているような気がしていた。

便利さと引き換えにお金やものに縛られ、精神的にも満たされず、むしろ不自由な生活を送っている人が多いという現実に戸惑うようになっていった。

ブログは西洋的な外資のやり方で合理性や効率性を極限まで突き詰めていった先にあったグローバリゼーションと資本主義システムの大いなる矛盾や限界とそれにどう向き合うべきかについて記したものだった。

30歳までの僕はマズローの5段階欲求を満たすことを目指して生きていた。30になったとき、僕は大手企業の経営幹部と対等に仕事をし、数億円のコンサルティング案件を回し、売上数千億円の企業経営の変革プロジェクトリーダーを任されていた。

週末は友達と鎌倉でシェアハウスをやり、年間120日はサーフィンしてから会社に通い、彼女とともに副業としてヨガスタジオをはじめ、ローカルなコミュニティの輪も広がっておき、全方位において充実しきっていた。

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にもかかわらず、一方でとても怖くなっていった。
30歳にして山を登りきった気になって(今思えば天狗になっていたのだが)、その先の道がどこに通じているのか、目標が見当たらなくなってしまったのだ。

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それから数年間はある意味惰性の中で過ごしてきていたが、一方で鎌倉のローカルコミュニティに根付く感覚、サーフィン、ヨガなどの実践が徐々に僕の身体感覚を通じて頭でっかちだった脳に響いて変容していったのかもしれない。

そんな中、僕はコンサルタントとしてひとつの企業の成果を最大化するプロとしてではなく、この巨大な資本主義という大きなシステム自体をコンサルしなければならない、そんな止むに止まれぬ強い思いが芽生えてきた。1年くらいかけて辞めようと思っていたら思いついてから3ヶ月で会社を辞めることになっていた。

辞めてすぐにやったことは、農業だった。
ポスト資本主義システムをデザインする方法論が世の中にないかと探していたときに出会ったのが「パーマカルチャー」だった。

パーマカルチャーとは、持続可能なシステムデザインの方法論で、オーストラリアのビルモリソン発案後、世界中のオルタナティブな人たちに広まった。しかし、その原点は特に日本に見られた持続可能な農業であったことを知った。

農業をやろうと思ったのにはいくつもの理由があるが、大手企業のコンサルをやっていて痛感したことが大きい。それは、企業が本当に変わるためには消費者が変わらなければならない、という思いであった。

僕が支援してきたクライアントは主に日用品を中心とした製造・流通業であり、多くの人たちが日々お世話になっている製品を扱う会社だった。どこのクライアントも狭い市場の中で、終わりのない価格競争のラットレースに飲み込まれ疲弊していた。

消費者は、購入した製品の生産過程など気にとめる事もなく、安さのみを追い求めるようになった結果、時には市場と競争による激しいプレッシャーの中で、企業はコンプライアンスにひっかかるような事件を起こす事も頻繁に起こすようになった。

それらは問題の氷山の一角に過ぎない。多くの問題が刑事事件にまで発展しないだけである。市場競争を突き詰めていけば最終的な競争優位や利益の源泉は、公共財を囲い込むか、情報の非対称性を利用するか、コストの外部化を利用するか、いずれかに収斂して行くしかないのだ。

簡単にいえば、本来誰のものでもないはずの自然や生命に占有権や特許権をとって囲い込んで切り売りするようになるか、消費者にわからないように消費者を多少なりとも欺きつつギリギリの線を行くテクニックを磨くか、PLに乗らないコスト—健康破壊、環境破壊、未来社会への代償に-を使って生産するか、いずれかの選択肢に頼らざるを得ない状況になってくる。

ヨーロッパでは、かつてGDPを上げるために各国首脳が集まって売春とドラッグの売り上げを組み込むことを決定したことがあったが、つまりそういうことだ。

僕は、農家さんのところに行って、まずは手伝わせてくださいと門を叩いた。

当時は従来的な慣行農法を否定し、自然農法(耕さない、農薬を使わない)をやりたいと言って意気込んでいたが、実際にやってみて、またパーマカルチャーを1年学んで以降、もうそのようなことは言わなくなった。

消費者はオーガニックがいいとか農薬使わないべきだといいつつ、なんでこんな高いのか?といって文句をいうのだ。それは彼ら彼女らが悪いわけではない。どれほどの思いや手間があって消費者の手に至ったか、その生産プロセスを全く感知できない社会になってしまった。僕たち個人が全体のプロセスから切り離されてしまっているという、これはシステムの問題なのだ。

みんなが自分の食べるものを自分でつくり、エネルギーをつくり、家をつくるようになったら・・・・足りないものはみんなで与え合って支えあう社会になったら・・・ポスト資本主義社会としての「循環型協同主義社会」がこれからあるべきシステムである、という仮説が徐々にクリアになっていった。

そんな社会はどこかにないものか?と探していたところ、40年前からすでに実現してきた人たちがいることに気づいた。「ヒッピー」たちである。

中でも群を抜いて面白い活動をしていたソーシャルヒッピーを名乗る日本の最先端ヒッピー、鯉谷ヨシヒロを発見した。ヒッピーとヤッピーでタッグを組めば新しい社会システムがつくれるかもしれないということを夢見て河村和夫とともに、自立分散型のコミュニティプラットフォームをつくるべくREVorgという会社を立ち上げた。両名ともCiftの同室メンバーだ。

国内外の辺境にあるそういったコミュニティをキャラバンでめぐる旅を続けている中で、Ciftの情報が入ってきた。

ついに、東京のど真ん中でも始まる。これは必然的な流れだと思った。健介が掲げるコンセプトは言葉を超越してこれは“必然的同志”だなと感じた。

企業主導ではなく、創造的な生活者が社会を変えていく時代が来る。国家、金融、企業という3つの権力によって分断された個は、今、自立した全体性に目覚める新しい時代を築いていこうとしている。

僕は、これが人類最後の“革命”だと思っている。
ネイティブアメリカンの言葉には、企業戦士(Soldier)から虹の戦士(Warrior)へという言葉がある。

一人一人が本来の自分に目覚め、自ら暮らしをつくり、自ら選択し、個人の全体性からの回復が、社会、世界、宇宙まで包含して完全に繋がっていく、そんな未来社会において、渋谷発のひとつの革命コミュニティCiftは僕にとって新たな一部分として存在していた。

これがCiftへといたった偽りのない僕の思考の旅だ。

でも、もうひとつの旅があったことに最近気づいている。それは内面の、心の旅である。

僕は、北海道は札幌のごくごく一般的な中流家庭に生まれ、両親の愛情に包まれ何不自由なく育った。

僕は一人っ子で、いつも一人で遊ぶのが好きだった。冬になれば一日中一人でカマクラづくりに熱中したり、一日中一人でスキーをして遊んでいた。寂しいと思ったことはなくて、一人で追及する時間が自分にとって至福のときだった。

親の愛情が深かったのか、自立心が高く、小学校の頃自ら塾に行くことを志願し(塾に行くのは当時の北海道ではかなり稀だった)、自ら中学受験を申し出て、家を出る寮生活を選んだ。大学も東京の大学を志願した。

常に上へ上へ、自立したい、成長したい、という思いが自分をドライブしてきた。

その過程において、ごく自然に、よりいい人間になりたい、より周りから評価される人間になりたいという思いが強まり、僕の成長欲求は、裸の自分にどれだけたくさんのよろいを重ね着できるかというお題に変わっていったのだ。

30歳のときに感じた不安というのは、このままどれだけよろい(もの、出世、お金、女・・・)を重ね着してもそれ以上の満足は至らないのだ、という真実に気づいてしまったのだと思う。

そして、いくらよろいをまとっていっても、裸の自分は一向に変わるわけでもなく、むしろよろいをまとわないと不安で仕方がないという意識がそこにあることに気がついてしまった。今までの人生とは一体なんだったのだろうかと。

そして、むしろそういった人生を歩む過程の中で、「自分はいつも一人だった」、「本当の生身の自分は少しも強くなっていないのだ」、「自分なんてどうせ変わりっこないのだ」というビリーフを確固たるものに仕立て上げてしまっていたのだった。

社会の中で、プロとして「完全である自分」を追求していたつもりだったが、それは、分厚いよろいを相手との間に溝をつくることであって、自分の弱い部分をひた隠し、守って生きてきた「不完全な自分」であるというジレンマに陥っていることに気がついた。

なるほど、なぜ人と一歩距離を置いてしまうのか、置かれてしまうのか、その理由がようやく腑に落ちたのだった。

大学時代の携帯メールアドレスがnever-enough.u1@・・・だった。決して満足しない自分。これが成長する自己において正しい目標設定だと信じていた。そして満足しきった30からは、まったく間逆のパラダイムを生きるべきなのだと知った。

これからは一枚一枚身に着けてきた、執着してきたよろいを脱いでいく道だ。一度周りを見向きもせず駆け上がった山道を今度はゆっくり周りを見渡し、味わいながら降りていく道だ。これは、本来の自分を取り戻す新たな旅なのだと。

Ciftは四十五人が共に生きる「家族」であると掲げている。それは僕にとっては「四十五人の自分」を意味している。

This picture has taken by Yoshihiro Koitani. it restricted to reuse by third person who are not authrized.

Ciftのみんなは、今まで僕が見ないことにしてきた自分の中にあるスポットライトの浴びてこなかった自分自身だ。彼ら彼女らに向き合う時、少なからず不安とか恐怖とかねたみを感じることもある。

家族になるということは、相手をあるがままに受け入れるということだ。世の中における全てのことは完全であり完璧なタイミングで訪れるのだから、このタイミングで偶然のように家族になった四十五人というのが、僕にとって今向き合い、受け入れるべき自分のシャドーだと考えている。

そんなみんなをあるがままに受け入れていくということが、僕の本来の自分を取り戻していく旅である。

そしてこの社会の縮図としての四十五人を自分の中に全て取り込めたとき、すなわち、みないようにしてきた自分の弱さもすべて受けいれてつながれたとき、それは、この世の中にあるあらゆる善も悪も超えて受け入れている自分であったとき、そのミラーであるあらゆることを受け入れ超えた社会が目の前に広がっているのだと思う。

こうして僕の「思考の旅」と「心の旅」が一つに結ばれる。
それが僕が見ようとしている平和へのアプローチだ。

この旅路はそんな美しく簡単なものではないと思う。もがいたり苦しんだり失敗したりする道だと思う。ビジネスや社会変革を成し遂げようとするのはとてもすばらしいことかもしれない。でも、その前に目の前にCiftが家族であること、もっと言えば、目の前の大切な人、恋人や血のつながった家族がある。

今自分はどれだけその人のことをあるがままに受け入れられているだろうか?社会問題はいまこの瞬間、目の前で起きていることに、すべて反映されている。
奥さんを幸せにできてなければ社会は幸せにはならないだろう。もっといえば、自分自信を満足させられていなければ社会は一向に満足しないだろう。
「真の革命は『一切の革命は不要』である、と気づいたときに、起きることのこと」なのだと今思う。

すべては自分の意識から始まる。社会を変えることではなく、自分が変わることが社会のために繋がるのだと信じて。

Ciftは僕にとって拡張した自分として存在している。