意識家族は、時間をすっ飛ばした別次元の関係性なのかもしれない。


これまでに、拡張家族のイメージに近い感覚を味わった経験がある。

大学で過ごす時間のほとんどを費やしたゼミ活動だ。義務教育で経験してきた受け身の教育とは真逆の、主体性でのみ成り立つ研究の場。

ゼミ活動では個々人の研究よりも、ゼミ所属者全体で一つのプロジェクトに取り組むことが多かった。チームワークの質の高さが求められた。

バイトに就活、勉強、サークル、これでもかというほどの忙しさを抱える学生が、自由という不自由さのなかで主体性を求められる。

何度か崩壊しかけた。

たった十数名のゼミの仲間は、一言で言えば多様性。正しさのぶつかり合い。喧嘩。脱退する人。怒る人。怖がる人。優しい人。優等生から抜けられない人。

最も存在が危ぶまれたのは、互いが無関心になった時。

それでもそれぞれの目的のために、ゼミを存続させなければいけなかった。議論を繰り返して卒業直前に辿り着いたのは、絶対的安心感。家族でも恋人でもなく、友達と表現するのもなにか違う。

相手と自分を隔てるものが無くなった不思議な感覚。誰かが本当に必要としているものを、与え得る限り与えたいと思った。自分が苦しんでいる時は、必ず誰かが側にいた。

Ciftで同じ感覚を味わうことになるのか。全く別の感覚に辿り着くのか。

あの時の仲間は、少なくとも意識家族ではなかったと思う。意識ではなく、過ごした時間が結果的に家族のよう関係を造った。

しかし意識家族は、時間をすっ飛ばした別次元の関係性なのかもしれない。

そうだとすれば、これは自分の意識の限界に挑戦すること。今の自分には正直概念に共感することができても、それを体現することは難しい。

でもいつか意識家族を体現できた時、想像を遥かに超える豊かさを感じることができる気がしている。

松下 康子