まだ、言ってないことなんて100とある。


水に入るのが嫌いだった。

耳が塞がって、音が聞こえなくなると、自分が一人ぼっちになるような気がして。

小学校1年生の夏休み、補習の時間にプールに来たのは私一人だった。

その時泳げなかったは私一人だったのだ。

広いプールに先生と二人きり。水の中は暗くて、ものすごい恐怖だった。

父の不在とファザコン、アレルギー、いじめ、家族の崩壊、小さな栄光と挫折、借金、起業、依存症、自殺未遂、結婚と離婚、家出、ホームレス、13種の仕事、DV、鬱病、無職、再婚、同居、出産、子育て、公務員、パワハラ、フリーランス、女社長、脱毛症、更年期。

こうして書くと、よく本に出てくるような、とても波乱万丈な人生にきこえるけれど、本当にそうだろうか。

40年も生きてきて、そんな全てが順風満帆な人なんて本当にいるのだろうか。

ここでの生活は経験とか学びとかじゃなくて、愛を持ってこの身に起きたこと全てを「あること」にするか、しないか、だけかもしれない。目をつぶったところで、何も消えたりはしないし、この世界に疑問があるなら、自らが変化になるしかない。

これが私のCiftに入った理由。

Ciftの生活は、絶賛子育てや仕事に常に追われているもう一つの私とは違っていて、どこか静かで、おちついている。でもその反面、しっかり耳をすませばきっともう一つの生活よりも100倍ぐらい、常にざわざわしている。

ここに来て、目に見える表面の日常だけではなく、下に流れる気配を感じるということの意味がよくわかった気がする。

何かあると逃げこんでしまう大好きな森の中は、誰もいないのに常にどこかざわざわしていて、だから私には気持ちがよかったのかもしれなかったけれど、そのざわざわした気配の裏側には、考えられないほどの生ぬるい命があるのだということにも、きっと私は気がついていたはずなのに。

今は、自分だけに向き合わざるをえない水の中も不思議と怖くない気がする。

人生の厳しさや孤独から上手く逃げよう逃げようと思っていても、それは常にどこかには「ある」もので、こうして自分にしっかり向き合えた時、やっと他者への向き合い方を考えることができるのだと思う。これからは、自分と同じぐらい、他者をしっかりみつめていきたい。

自分自身がまず、本当の意味で自由になるため、
目に見える誰かを一人にしないため、
私は私の人生を拓いていくことに決めた。

そんなことができる人たちが、ここにはもう50人ぐらい存在している。そもそも自分の人生を拓くことが、この世の中の役に立つなんて思いもしていなかったのだけれど、私は、彼らの拓く、それぞれの人生から、すでに多くのことを学び、同時に勇気をもらい始めている。

未熟に取り繕ってきた日々、ふりきれない恥ずかしい気持ちはもちろんまだある。

でも、これから先は、自分らしく生きていくことに正面から向かい合おうと思う。

自分の中の疑問を、しっかり持ち続けたいと思う。

誰か一緒に考えてほしいと、ちゃんと言おうと思う。

あなたは私。だから大丈夫。

共にあるのだ。私たちは。

山倉 あゆみ