なぜ“家族”になるために「人事」があるのか


この記事を公開する理由

Ciftが発足してから1年が経った。準備期間も合わせると2年弱になる。2年目に入って、Ciftは、今まで属人的だった人事権をシステムにしようとしている。

そのなかで、Cift内でも人事についての議論や対話が始まってきた。今までは僕が一人で人事をやってきたので、そこでの経験や哲学を共有することから家族内での議論や対話を始めたほうがいいと思ったのが、本記事作成のモチベーションである。と同時に、自分の内側の気づきをなるべくフラットに閉じないという平和活動を実践する意味でも本メディアに載せることに挑戦したいと考えた。

Ciftにおけるここまでの人事とはなんだったのか、そしてこれからの人事について、僕が個人的に思うことをつらつらと述べたい。

CiftがCiftであるために、人事こそが最重要テーマ

Ciftには人事というものがある。単に「人事」ならば自然の事柄に対する人間社会の出来事や人間の行為も意味し、組織での人事といえば地位や身分や能力、あるいは採用・転任・退職などに関する事柄を指すが、ここでは字の通り「人を扱う事」というほどの意味を前提として進めたい。

家族になるために人事があるということにざわつく人もいるかもしれない。世界平和活動なのに境界線があるということにざわつく人もいるかもしれない。2年弱の間には、いろいろな変化もあった。だが、いずれにせよ、人事については確信的に全て僕一人が担ってきた。

それは、なぜか。

CiftがCiftであるために人事こそが最重要テーマだからだ。

Ciftという共同体における最も重要な要素は、「メンバー全員を無条件に家族だと受け容れる」という思い込みをメンバー全員が自らの意志で最初からしていることである。それは、みんなが意識家族だと信じ込むことを可能にするための見えない力、精神世界での重力が働いているからこそ成立する。

初期設定の段階で意識家族であると自らの意志で思うようになるための重力を発生させ、それが集積された場の力を生み出すことを人事の役割としている。

その重力を保持するためには意識と態度での理解をするための初期設定が重要で、結果的に膜のような境界線がCiftには必要だ。その膜の中で意識家族としての文化を深く醸成し、そうすることで徐々にその膜を広めながら薄いものにしていくことができると考えている。2年目のCift人事システム化の動きは、その薄膜化の第一弾である。

インプットも、インタラクティブも

ここまでの約2年、人事のあり方とやり方は常に変化してきたが、一貫して変わらないのは、コンセプトをインプットする場と、ダイアログをするインタラクティブな場の、二つの場を設けていることである。

初期は月2回のコンセプト説明会を知人や友人を招いて開催していた。コンセプトの骨子はあったが、自分でもまだやり方に確信はなかった。僕は3時間かけてインプットとしてコンセプトを話し続け、途中でインタラクティブとして最初のチェックイン、ダイアログ、最後にチェックアウトを行っていた。この方法は機能する部分もあったが、会いたくても会えない人がいるという限界もあった。

そこから設立までは、説明会もやりつつ、個別に一対一でコンセプトを説明する対話行脚もしつつ、両方をハイブリッドでこなしていた。合計400人くらいには声を届けたと思う。

インプットだけでなくインタラクティブな対話も最初から重視していたが、この頃の僕の対話スキルはまだまだ未熟で、勘所も分からないまま手探りでやっていた。

2017年5月にCiftが立ち上がってからの半年間は、そもそも拠点である渋谷キャスト以上の拡張を考えていなかったこともあり人事については消極的だった。その中で必要に応じて一対一でインプットしインタラクティブをしていた。

Ciftが2.0に入ったフェーズが1月に行ったCift合宿のタイミングだ。そこで拠点を増やし家族を増やす計画をみんなに共有した。

それ以降は毎月3〜6人くらいが恒常的に増えつづけている。そのために僕がCiftにいる時間の大半は面談に使っている。具体的には、月72時間ほど時間を人事に使っている。

コンセプターの勘所

現在、僕がどういう勘所で人事をしているかを以下に共有する。

家族候補者紹介には2パタンある。

ひとつは、僕が日常のご縁の中でピンと来る人に声をかけるパタン。Ciftにフラッと遊びに来て雰囲気を良く感じてくれている人に何気なくふわっと声がけしてみることがある。

もうひとつは、家族がこの人はという人を推薦してくれるパタン。説明会で「はじめまして」から始まる関係性になる。

コンセプト説明は、基本的には一対一で90分かけて行う。これは後述するが一対一である必要は必ずはないということが分かった。説明は四章に分け、途中にダイアログを挟んだりもする。

第一章(WHO):Ciftとは何者かを包含的に紹介する章。一周年のスピーチで話した内容はこれだ
第二章(WHY):なぜやるのかを時代背景から説明する章。
第三章(WHAT):なにものでありたいのかをリーダーシップから説明する章。
第四章(HOW):どうやって実現していくのかをシステムから説明する章。

おそらく累計で300回以上は話していて、今も常にアップデートしている。

一周年スピーチのスライドがもし圧倒的に濃い感じを受けたならそういうカラクリがあったのだ。その裏には膨大な時間と努力が詰まっている。

ダイアログ(対話)は、人によって差はあるが、平均2回が多くなってきた。

1回目は、コンセプト説明を受けて、その人から感想をシェアしてもらい傾聴する。その上で僕の方から考えてもらいたい後述するが二つの状態についての宿題を出す。

2回目は、その宿題を持って音合わせをするように対話する、いわば調律のようなことをしている。

三つのライフフェーズのどこを生きているか

この二つの状態についての「調律」がCiftの人事での要諦といえる。二つの状態とは、「目的としての主体的全体である意志」の調律と、「手段としての自己変容しようとする態度」の調律だ。

一つ目は、目的が主体的全体である意志の調律だ。

それを僕は、依存的全体、主体的個別、主体的全体という三つのライフフェーズで整理している。

断っておくがどれが良いとか悪いとかではなく、この構造自体が人生や歴史における一つの真理だと認識しており、どのライフフェーズもかけがえのないもので、全てはタイミングだと思っている。一般的には、「英雄の物語」と言われている構造だ。

それを前提に、以下、それぞれを説明する。

依存的全体:属する共同体に依存している状態。大いなる母親に包まれている状態。

このフェーズで必要なのは居心地の良い共同体から自らの離脱を通して自立することである。全体から分離することで、自分自身の存在に向き合い、力を身につけ、自信を持つということが重要だ。その自立が新たな共同体に入ることだと今度はそれに依存してしまうのでCiftに入るタイミングではないと考える。まずは自らの足で立てる力をつけようと伝えることにしている。

主体的個別:共同体から離脱し、自らの足で歩きはじめ、自己実現を目指そうとしている状態。

この状態は力を得るためにとても必要な時期であると同時に、Ciftではこの力はあくまで手段であって、目的である愛の主体的全体へと意識を向けるかどうかがポイントになる。

主体的個別を目指して邁進している人については、それを応援しながら、Ciftという場所はその自己実現を一部解いて全体実現に加担する行為なので今は適切ではないと伝えるようにしている。

主体的全体:自己実現において限界感や喪失感を感じた上で、自我を超えたものにコミットしようとする状態。

力を得る主体的個別フェーズを通った人たちがそれを手段として、愛という目的に意識が向き始めたらCiftに入る立ち位置になったと言える。

ここでポイントなのは主体的全体がすでに体現できている態度の状態ではなく、そう在りたいと思う意識の状態を確認していることだ。

なぜなら僕も含めてここができている人は少ないし、むしろそこを共進化するための場所がCiftだからだ。

その時に大事なのは自らの意志で入った環境が自ずと人を変容させていくことだ。このとき、主体的全体への意志がなければ、どんな環境があっても発酵しないし、むしろその人の人生にとって腐敗してしまうので、ここの音合わせはとても大事と言える。

誰もが不完全な自分。自己変容したいかどうか

二つ目は、手段として自己変容しようとする態度の調律だ。

主体的全体の人生を邁進していこうという意志が発露した時に、実際の態度として自己変容をしようとするかがまた重要である。

この時、自分を自分たらしめている根源的部分からも自己変容したいのかどうかを問うための対話をしている。そこでは、その人が持つカルマとトラウマまで踏み込み、愛と力、母性と父性、関係性と主体性という陰陽バランスの中で自分がどうアンバランスなのかを深いレベルで問うことにしている。母性が強い人には主体性を重んじるように言い、父性が強い人には関係性を重んじるようにように言う。

ポイントはこの瞬間に変われるかどうかではなく、そういう自分の弱さや負をさらけ出すことができるかどうかだ。主体的個別として力を得れば得るほど自分の中の規範性が強くなり、弱い部分を直視したり外へ開いたりしにくくなることはままあって、その状態でCiftに入ると居心地が悪くなると思っている。

僕自身にも父性寄りのアンバランスさが態度としてあり、それに限界を感じていることもあって今回人事を開放しようとする動きがあったりするくらいには、自分が不完全なことを承知している。

感覚的な成約率は20%を切っている

ダイアログを通しての調律調整が終わると、四者面談を行なう。公式には初めて僕以外の人たちと顔合わせをする機会になる。

これまで、四者面談は、新家族になっていく人たちのための導入という意味が大きかった。橋渡しする意味では効果がある一方、プロセス的にはこの段階以外の可能性もある気がしている。今後改善していくシステムの中で組み替えていきたい。

勘違いされることもしばしばだが、この人事プロセスで”僕の強者的立場から一方的にお断りしたことはほとんどない”。むしろ、二つの調律を経て、Ciftに対する客観的理解と主体的直感が腑に落ちた上で、候補者が自ら辞退するケースがほとんどだ。

意識家族なのに意識がブレて入ることだけは絶対に避けたいと思い誠意を持って接した結果であり、Ciftは常に開いていると僕が思う所以である。

カウントしたことはないが、感覚的な成約率は20%を切る。つまり、約80%がこのプロセスの中でCiftに入らないことを選択する。そのパターンは大きく3つあるだろうか。

ケース1:意識として理解し共感する中で、現在の心境や環境のタイミングの都合で応援されながら一歩下がるケース

ケース2:その人がフェーズが依存的全体で、まずは主体的個別を目指してほしいと応援しながら見送るケース

ケース3:一重に僕の人間力不足で父性的な解きが強すぎる余りに、なんらかの不快な思いをさせてしまい関係が途切れるケース

ケース1とケース2は双方が納得できる状況を生み出せていると思う。もったいないのはケース3で、僕の未熟さという限界をここに感じる。Ciftにおいての機会損失でしかない。人事をシステム化する理由の一つでもある。

そしてそれ以外にも多くの経験の中で、あくまで「個人」の意志としてのコミットメントが大事だとわかった。具体的に言うと、夫婦などの二人以上での所属希望や、法人名義での所属希望は、どこか個人の意志以外の要素が入ってしまうので、その後の全体への関わり方においての熱量が相対的に難しいと感じる部分がままある。

なぜ人事をシステムにするのか?

このような哲学と経験の中で、なぜ僕は、これまで属人的だった人事権をシステムにしようとしているのか。それには3つの理由がある。スケーラビリティの問題、クオリティの問題、ラーニングの分散である。

理由1:スケーラビリティの問題
Ciftが拡張していくと決めてから、僕はCiftにコミットする時間の大半を人事に費やしてきた。もうすでに100%のキャパシティなのである。今後、Ciftの拡張曲線はゆるやかだが指数関数的に延びていく。その中で、僕一人が人事権を担うというのは現実的ではないし、余りにもバランスが悪い。

理由2:クオリティの問題
先述のケース3にあるように、客観的事実としてCiftのコンセプトを語ることは現状の僕でも問題はないかもしれないが、日々のダイアログの中で自分の人間性の未熟さを感じることがままある。それがゆえの機会損失は誰にとってももったいない。

理由3:ラーニングの分散
一対一の個人の内面を開きながらCiftの在り方と調律する時間の学びははかりしれない。魂のこもった言霊が相手に鳴り響くと同時に、自分にも鳴り響く、かけがえのないものである。この半年以上、そこに自分が従事させてもらった学びははかりしれないと心から思う。この学びを自分だけで独占すること自体がもったいないし申し訳ない。これからCiftは自律分散していくのだ。

こんなふうにプロセス化したらどうだろう?

では、人事をシステムに変化させていくには、具体的にはどうしたらいいのだろうか。僕の仮説は以下の3ステップとなる。

1.客観的、思想的、構造的な力のインプット:コンセプト説明会への参加

2.主観的、直感的、時間的な愛のインプット:家族朝会への参加

3.二つのインプットを相互作用の中で鳴り響かせる:調律師との個別面談

これは、Ciftに入る動機が客観的であり主観的であり、かつ開いた状態であってほしいと考えたときの押さえておくべきポイントのように思える。

この中で、1のコンセプト説明会は今までどおり僕が定期的に行うが、2と3をシステム化することで、僕自身も一つのシステムの部分的役割を担う方向へとシフトしたい。

1のCiftの思想的理解により共に働く仲間として自分を手段にした外側への平和活動としてコミットが大事なうえで、2はもっと直感的理解により共に暮す家族として自分を目的にした内側への平和活動、安らぎや居場所のような心地よさを体感した上で入ってもらいたいと思う。

それは、どんなに概念的な共感があったとしても、Ciftにはすでに文化が耕されつつあり、そこには独特の色や形、間合いが全体としてある。その間合いに心地よさを感じない限りは、どんなに概念的共感があってもそこで暮らすことは他拠点生活における自立を前提にしたメンバーにとって足が遠のいてしまうことになると考えるからだ。

3の調律師との個別面談を今回の機会にシステム化することを僕は提案したい。
調律師として立候補してくれるメンバーをリスト化し、推薦者が候補者に会わせたい調律師を選ぶ。たとえば近い価値観の人と遠い価値観の人をそれぞれ一人ずつ選ぶなどしたらどうかと考えている。

Cift二年目のアプローチとして、膜を段階的に薄くする試みの第一弾である。

Ciftらしい文化の醸成が深いレベルで達することができれば、レジリエンス力は全体として高まり、膜はその分、より薄くなっていくだろう。

等比数列的な拡張を前提とするならば段階的に膜が薄くなっているのは然るべきだ。しかし、だからといって二年目の段階で人事の方針を抜本的に展開することは僕には危険のように思えるので、今回のような叩き台を提案したことを家族の皆に理解してもらえると嬉しい。

皆との共創造へと進化したい

いかがだったろうか。

今まで積み重ねてきたものを言語化すると結構な分量になるんだなと改めて思ったし、自分で完結して活動していることもある中でこのような背景を察してよというのも無茶だし失礼なことなんだと改めて思い、反省している。

ダイアログをしていて、目的が同じであるに関わらず、手段が違うだけなのだが、コミュニケーション不足でそこでの正義感の戦いになることが多いなとつくづく感じる。そこを簡単に分断せず、愛を持って余白のある時間の中で相手の声を耳を傾け、そしてそこから対話を始めることが重要だと。

そのためにこのようなモノローグに近い長い文章を外部にも閉じないという絶妙なバランスの中で書き上げて共有することの価値は思った以上に高いのかもしれないと思う。少しでも自分が今までやってきた内面的な思想と外面的な行動の経験が共有されればと思う。

僕の中のどこかに、この人事を一人で思想し行動してきた孤独感というものが常にあった。自分が抱えてきたこの孤独感が皆に伝われば僕の心が嬉しい。その感情的な部分が共有できている家族的な安心感の中で、理性的な集合知としての仲間的な創造性は、自分一人の奮闘から私達の共創造への進化になると思う。それを心から望んでいる自分がいます。

続きは毎週やっている今度の家族対話でぜひ。いつもありがとう。

 

Text:藤代健介
Edit:福田容子